MAZDA BLOG
2020.5.27

マツダ百年史① 自社開発へのこだわり(1930年代)

今年、2020年の1月30日、マツダは創立100周年を迎えました。

 

この100年間、マツダにも、それを取り巻く社会環境にも、さまざまな出来事がありました。

マツダの生産する自動車も、みなさんにとっての自動車の存在や役割も、大きく変化してきました。

そこで公式ブログでは、100年の歴史から特に今日のマツダにつながる出来事や、マツダやマツダを取り巻く環境の中から象徴的なエピソードを厳選してお届けします。

 

第1回は、1920年の創立から約10年後、マツダ(当時は東洋工業)が自動車産業に参入を図っていたころ。

マツダは、三輪トラックを生産していた時代から「とにかく自分たちで作ってみよう」と、自社製にこだわっていました。

今日の開発や生産にも息づくストーリーを、ぜひご覧ください。

 

はじめの一歩はオートバイレースでの勝利から

時は1930年10月、場所は広島市の中心部にある西練兵場(現在の中区基町)。

当時の陸軍第5師団が主催する「招魂祭」の余興として、オートバイレースが開催されました。

そこでオートバイの試作車を会場に運び込んでいたのは、東洋工業社長の松田重次郎とその技術陣。

自分たちの手で一から設計・製作したエンジンの実力を試すべく、このレースに参加したのです。

1930年当時に東洋工業が少数販売していた2サイクル・250ccの自動自転車

1930年当時に東洋工業が少数販売していた2サイクル・250ccの自動自転車

 

当時の一大イベントだったこの招魂祭のレース。

数万人の観客が押し寄せ、オートバイの操縦者も日本全国から名うての面々が集ったといいます。

そして、彼らが乗り込むオートバイといえば、ほとんどが海外の有力メーカー製の「舶来品」でした。

対して、東洋工業がつくった生粋の「国産品」がどこまで切り込んでいけるのか、重次郎をはじめ東洋工業の皆が、期待と不安の背中合わせに揺れていたことでしょう。

 

東洋工業の操縦者に選任されたのは、何と市内の二輪車販売店店主でした。

「どかんと頼みますで!みんな抜いたってくださいや!!」など、激励を送る東洋工業の技術陣。

店主は「国産車と東洋工業の名誉にかけて…」と意気込みつつも、並み居る強豪を眺めてはやや顔面蒼白気味だったのではないでしょうか。

そして、いちばん心中穏やかでなかったのは社長の重次郎、わが子の旅立ちを見守るように「ただ故障せず無事に完走してくれ」という気持ちでした。

 

号砲に合わせ、十数台の出走車がいっせいにスタート。

本命と言われていたのは、イギリス製のアリエルのオートバイでした。

AJS、トライアンフ、ハーレーダビッドソン、インディアン、BMWなどとも肩を並べる世界的に著名なメーカーで、観客の誰もがアリエルの優勝を予想しながら観戦していました。

 

ところが、レースは目を疑うような展開に。

東洋工業の試作車が並みいる輸入車に一歩も引けを取らないどころか、大接戦を演じます。

そして最後に、アリエルを引き離してゴールに飛び込んだのは、何と東洋工業の試作車だったのです。

 

快哉を叫ぶ重次郎と技術陣。

それは舶来万能主義の時代に、国産品のプライドが一石を投じた瞬間でした。

そして自信を得た重次郎は、「自分たちの手で、国産三輪トラックを開発する」と、次の一歩を踏み出す決意を固めたのです。

1930年招魂祭での優勝記念写真

1930年招魂祭での優勝記念写真

 

日本の市場に合わせた国産三輪トラックの量産へ

当時、すでに都市部を中心に普及し始めていた三輪トラック。

とは言え、エンジンや主要パーツは依然として海外製だったり、なかにはリヤカーにエンジンを積んだだけの簡易なものも混在したりしていました。

内務省(当時)の規格審査には通っていたものの、日本の道路事情にそぐわないものや、手工業的な生産で品質の安定しないものも多かったといいます。

 

「我々の手で、どうにかして信頼性の高い三輪トラックをつくりたいと思う。ついては、全国に実態調査に行ってきてほしい」

重次郎の命を受けた技術者たちは、勇んで旅立っていきました。

彼らにとっては、自動車がつくられ、使われる現場を自分の目で見る、絶好の機会だったのです。

 

調査の目的のひとつは、製造の実態をつかむことでした。

自動車には、二輪車よりも多種多様な部品が必要です。

自社で製造できない部品は、どこから・どのように・どのくらいの価格で調達できるのか、具体的な方法を見通しておく必要がありました。

 

もうひとつの目的は、生きた声を聞く需要の調査です。

三輪トラックが、実際の現場でどのように使われ、どんな課題を抱えているのか?

当時の、狭くて舗装のされていない日本の道路を走るには、頑丈な車体構造や安定した動力伝達機構が不可欠。

そして経済の発展とともに、より多くの荷物を積める「馬力」と、より速く運ぶための「スピード」が求められていました。

 

「荷馬車程度のスピードが出ればええと思っとったけど、違うんやな」

「それでは足りないと思います。いま、世の中の変化は早い。3年後、5年後には、もっと高い性能を求めるようになるんじゃないでしょうか……」

予想を超える、市場の様子を技術者たちの報告で聞きながら、重次郎の頭の中で新しい三輪トラックの姿が徐々に明確になっていったことでしょう。

1930年当時の試作三輪トラック

1930年当時の試作三輪トラック

 

そして、設計図を引き始めて2週間ほど経った頃、ひとつのニュースが飛び込んできました。

車体寸法や発動機の出力について定めた「小型自動車規格」が改定。

制限が大幅に引き上げられ、総排気量は、それまでの350㏄以下から500㏄以下となったのです。

 

「これで馬力もスピードも十分出せますね」「ここにきて、願ってもない追い風だ」

沸き立つエンジニアたちに、重次郎はこう応えたと言います。

「よし、許されるギリギリまで大きい三輪トラックをつくろう!」

 

開発は一層熱を帯び、イギリスやドイツの先進的なエンジンやトランスミッション、車体を取り寄せて研究し、

日本の市場に合わせた独自の構造をつくりあげていきました。

「スムーズな後退を可能にするには……」「曲がり角で安定した動きを得るためには……」

技術者たちは時間を忘れて何度も図面を引き直し、部品をつくり、つくっては改良を繰り返しました。

 

こうして1931年、東洋工業の記念すべき第1号の三輪トラックが誕生したのです。

東洋工業第1号トラックのDA型三輪トラック

東洋工業第1号トラックのDA型三輪トラック

 

1931年10月、一貫生産体制が整った新工場で、新しい三輪トラックの生産が開始されました。

重次郎が自動車開発への思いを抱いてから約20年、会社創立から約10年、招魂祭のオートバイレース優勝からわずか1年。

技術と情熱を注ぎ込んだ国産自動車が、いよいよ次の時代へと走り始めた瞬間でした。

 

なお、その後も招魂祭レースには三輪トラックでも出場を続け、1934年にも優勝するなど輝かしい成績を残しています。

1934年招魂祭レース参加中のDC型三輪トラック
1934年招魂祭レース参加中のDC型三輪トラック
1934年「招魂祭」での優勝記念写真
1934年招魂祭での優勝記念写真

 

 

以上、自社製でオートバイレースに参加して自信を付け、自分達で日本の市場に合った三輪トラックを造り上げたお話、いかがでしたでしょうか?

そして当時の社風を、今のマツダにも同じく感じていただければ嬉しく思います。

 

また、マツダ100周年サイトのMAZDA VIRTUAL MUSEUM「エピソードで語る百年史」でも、マツダ100年の歴史にまつわるお話をご紹介しています。

こちらもぜひ、ご覧ください!

■MAZDA VIRTUAL MUSEUM
https://www2.mazda.com/ja/100th/virtual_museum/
https://www2.mazda.com/ja/100th/cars/detail_001_da.html

カテゴリー:クルマ , ストーリー